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かびたぬと再会する日まで頑張ります

町村敬志 「「評価国家」における統治の構造」

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町村敬志 「「評価国家」における統治の構造 : 政治的合理性・プログラム・テクノロジー 」

(2016 年 ミネルヴァ書房, 『社会理論の再興』収録)

 

難易度: ☆☆(中級)

推奨度: ☆

選好度: ☆

 

 

この文献を取り上げたきっかけ

国内仮想通貨FXのレバレッジ規制がさらに強化されるかもっていうことがTwitterで話題になってたぬきね。

 

今年の春に「自主規制」で4倍に引き下げられたばっかだけど、規制派まだ満足しないみたいたぬ。

その是非はまた今度に譲るとして、今回はそうした自主規制の「自主」の部分にフォーカスを当てるような論文を見つけたので、いい機会だから紹介するたぬね。

 

簡単に言えば町村さんによるこの論文は、「自主規制や自発的な資格獲得って見かけはそいつの自発的な行動だけど、実際には権力作用を受けてるよね〜」っていう議論をしているたぬ。

 

以下、論文と、関連する文献のお話たぬ。

環は社会学は素人たぬから、怪しい説明になってるかもってことをご容赦くださいたぬ。

 

 

評価国家・評価的権力

評価国家、あるいはそれが基づくところの評価的権力というのがこの論文のキーコンセプトたぬ。

 

それがどういうものかっていうと、「資金、認証、格付、集団化、意思決定への参画」などを通じた権力作用のことたぬ。

要するに、それらによって動機付けることで、権力にとって都合よく行動させようっていうのが評価的権力の在り方たぬね。

 

 

・・・もしかすると、「権力」って聞いたら、普通もっと露骨なやつを想像するかもしれんたぬ。独裁者の暴力による統制なんかは典型的たぬね。

 

でも、そんなむき出しの権力行使は近代化と共に影を潜めていってると言われているたぬ。

このことの指摘は何も今始まったことじゃなくって、フランスの哲学者・社会学者であるフーコーって人あたりが、もう何十年も前に繰り返し論じていることたぬね。

そこで論じられているのは、「ディシプリン」っていう、主体に権力を内面化させるっていうことたぬ。

 

フーコーの「ディシプリン」

あんまりいい例かわからんけども、例えばそうね〜。

マンガに出てくるような「学校の優等生」とかどうかな?たぬ。成績優秀学校行事には進んで参加し、ド正論ばっかりいって、それから外れるような生徒についてはすぐ先生にチクってくる、みたいな。友達になりたくないたぬ〜。

 

そういうユートーセータイプってのは、友達にするには嫌なやつだけども、普通は「しっかりしている」とか「主体的な取り組みがある」みたいに思われるたぬね。

なんでそんなユートーセーなの?みたいに聞いたら、きっと「社会人になるのに当然のことだ」みたいにいってきそうたぬ。

 

こういうやつはあたかも自発的にユートーセーになっているように見えるかもしれないし、本人はそのつもりかもしれないたぬ。「親や先生のいいなりなんじゃなくて、単純に親や先生が言っていることが正しいし、自分もそう思うかそう振る舞う」っていうつもりかもたぬ。

 

・・・大雑把にいえば、こういうことがフーコー的な「ディシプリン」っていうやつたぬ。

このユートーセーは自発的に権力を内面化して従っているわけたぬ。

権力(ここでは学校や一般社会)からすると、そういう反抗しないユートーセーの存在は自分たちにとって都合がいいことたぬ。特にチクりで反抗する気に入らん生徒たちを監視・抑圧してくれることはタダ働きするスパイみたいなもんだから、とっても都合いいたぬよね。

 

 

フーコーの議論は、これを歴史的な近代化の過程に見出そうっていうものたぬ。

近代化していく過程で、権力はむき出しの暴力による支配から、こういう「ディシプリン」による巧妙な支配を進めていっただよ〜という議論を行ったわけたぬ。

 

余談たぬけど、同様のことを直接学校教育という制度について議論したことで有名なのは、フーコーというよりイワン・イリイチという人たぬね。興味があったらそっちも読んで見てね。

 

評価的権力

以上の「ディシプリン」の考え方がわかれば、評価的権力もその延長で理解可能たぬ。

 

つまり評価的権力っていうのは、資格や資金配分をチラつかせて、人々に自発的にそれを選びとらせ、その過程で権力にとって都合よく「ディシプリン(規律化・訓練)」してやんよっていうあり方をしてるたぬ。

 

例えばそうね〜。

今高等教育の資金が問題になってるたぬけど、極端な話、権力にとって都合のいいような研究にだけ金をジャンジャンくれてやって、それ以外には年間100円くらいしかやらないとするたぬ。

 

そんな状況になったら、きっと多くの人が権力に都合のいい研究ばっかりするたぬよね。

ここでポイントになるのは、「権力に都合いいこと書け」って直接命令しているわけでは全くないってことたぬ。みんな飯を食うために、自発的に権力に都合がいいことを書き始めるわけたぬ。権力がしたのは、みんなが自発的にそうするような環境を作ったことだけたぬ。

 

 

資格や認証の場合も同じたぬね。

何も、「そういう資格を取らないと死刑にするぞ」って脅しているわけではないたぬ。

ただ、そういう資格を取らないと開業できないようにしたり、資金援助を受けられないようにしたりっていう制度を用意しているだけたぬ。そしてそのような制度を通じて、みんな自分に利益があるように振舞おうとすると、そこではすでに間接的に権力が作用するってわけたぬ。

 

 

そんなわけで、確かにある意味ではみんな自発的に行動してるたぬけど、その行動は権力側にとって都合が良くなるように予めデザインされているってわけたぬ。そのデザインは具体的に、資格や法令などの制度によって実現されるたぬ。

 

 

評価的権力の特徴

こうしたことから、この論文では評価的権力の特徴的な構造を以下のようにまとめているたぬ。

 

  •  その統治には求心的構造が欠如している
  •  評価による権力作用には限界がある
  •  けれども一見関係ない個々の政策をゆるやかにまとめる構造がある

 

こうした権力の特徴は何も今始まったことでなく、さっき見たようにフーコーの議論の範囲ですでに進行していたことたぬ。

 

ただ、この論文によると、評価国家ならではの新しい特徴があるらしいたぬ。

それは評価対象が主体そのものではなく活動であること、たぬ。

 

つまり「誰々はエライ!ユートーセーだ!」という風に、ある主体に対して評価するよりも、「これこれの条件を満たしたということが良い」「この活動は受賞に値する」みたいに、評価の単位が主体から具体的な実践へと細分化されたってことたぬ。

 

そうして、直接的命令を欠いたまま、相互に関連しない個人や団体に自発的な参加を繰り返させることがポイントたぬ。

 

 

 さいごに

「・・・なんか権力ってセコ〜い」って思ったぬきかな?

 

実際、フーコーのいう「ディシプリン」はまさにセコイもので、近代権力っていうのはそういうセコさの元に成り立ってるんや〜って書いてある本もあるたぬ。重田さんの新書、『ミシェル・フーコー』ではまさに「セコイ」っていう表現が使われていたはずたぬ。これも下に貼っとくたぬ。

 

そして、町村さんのこの論文によれば、現代では「評価的権力」としてますますセコく巧妙になってきているっていうことになりそうたぬね。

もちろん、「本当はそうじゃないんじゃないか?」って批判的に読むことが大事たぬ。むしろ露骨な暴力による支配は今もあるんじゃないかって、いろんなニュース見ながら思うたぬきもいるかもしれんたぬね。

 

・・・そんなわけで、仮想通貨トレードやってると色々と勉強になることがあるたぬね〜。